「赤のルート」とよばれるころ
母と姉エーディトと三人で暮す
姉は大学で法律学んでいた。その学資を得るためにベウラウは学校をやめてコーヒーを売る商売をはじめる。
新聞広告で高級住宅街の歯科医の助手の職を得る。
歯科医から求婚されたベウラウは、親切だが退屈な彼との結婚を受け入れるきにはなれず、できるだけ彼から遠く離れようと自転車でパリ旅行を思いつく。
大衆紙のエキストラブラーデット新聞社に直談判して、1行25エラで旅行記を書く仕事を取りつける。
1927年医者で著名な学者のローベルト・トント(20歳年上四人の子持ち)にひとめ惚れ、結婚。
その後、ポリティーケン新聞社の依頼でモスクワに行くことになる。再び自転車でモスクワに出発。
モスクワは演劇オリンピックが開催中で、存分に演劇を鑑賞し3ヶ月留まった。
コペンハーゲンに帰国すると、王立劇場の俳優学校に入学する。
1930年デンマークで最初の労働者劇団の誕生に加わる。1933年にはモスクワ演劇オリンピックに招待された。
ブレヒトとの出会い
1933年夏ブレヒト一家はデンマークに亡命。女流作家カリン・ミカエーリスの家に一時世話になる。
カリン・ミカエーリスを通してブレヒトと知り合う。
ベウラウは彼女のひきいる労働者劇団のための素材と助言をブレヒトに仰ぐつもりだった。ブレヒトはゴーリキーの小説をもとにした「母」について、それが労働者やズラタン・ドォードフ、ハンス・アイスラーを協力者とした仕事であったことなどを語ってきかせた。
同年秋にベウラウは、「芸術の夕べ」を企画し、ブレヒトの詩とソングの夕べは ブレヒトの詩とアイスラーの音楽とヴァイゲルの声、この三つの天才が小さなデンマークで一体となり
居合せた誰もが決して忘れないほどの大成功をおさめた。
1935年 ベウラウの労働者劇団はブレヒト、ヴァイゲルの協力を得て、「母」(デンマーク初演)や1937年にはスペイン市民戦争をテーマにした
「カラールのおかみさんの鉄砲」を上演する。
スペイン市民戦争
1937年6月から7月にパリで開催された「第三回分化擁護国際作家会議」にベウラウは参加、後にこの会議はマドリードに移して続行された。ブレヒトに2週間で帰国すると約束したものの、かなり長期滞在となった。(1931年、共和派の勝利と国王亡命によって成立したスペイン共和国は、36年7月のフランコ将軍の反乱によって国内戦となり、36年から39年まで、ヘミングウェイ、マルロウ等多くの人々が共和国を守る為に義勇軍として参加したが、39年3月、フランコ将軍が独裁政権を握ることによって、人民戦線の敗北に終わる)
ブレヒトは前線でのベウラウを心底案じ、また長期にわたって何の知らせももらえず、ベウラウに便りを送ることができないことに怒った。
「メ・ティ、ツー死を語る」には 「メ・ティの愛弟子ツーが市民戦争で殉死した時、きまった任務も他の課題も待ち受けていたのに銃をてにしたからという理由で、メ・ティはツーをよき革命家と呼ぶのは拒んだ。ツーが一つの任務を他の任務にかえた理由を十分にのべなかったからだ。戦争は弾丸のとびかう所にだけあると信じていて、五十メートル以上先を見ず、暴走のようにして死んだからだ。」
また、「市民戦争に出かけた妹についてのキン・イェーの歌」には 「キェン・レーと彼から去っていった生徒
キェン・レーが困難な時に弟子のツーに見捨てられたのは周知のことだ。ツーは帰ってきて又、迎えいれられたが、関係はもはや同じではなかった。ツーが去っていったからではなく、去るという決心を知らせず、話さなかったからだ。キェン・レーは悲しそうに言った、ツーには手が届かない、だからあてにもできないと・・・・・。」
ブレヒトとの仕事
ブレヒトは共に語る相手を常に求めていた。スヴェンボルグ近郊のブレヒトの家にはベンヤミン、シュテルンベルグ、アイスラーなど多くの人が招かれた。ブレヒトは彼らに自分の書いた原稿をみせ、討論をし、熱心にメモをとっていた。その場にいたベウラウはいつも聞き耳をたてていた。
また、ブレヒトはベウラウのナイーブな感想や提案にもよろこんで耳をかたむけたという。
この時代をベウラウは「修行時代」と回想している。
1939年ベウラウは、プラハのマリク社から出版される予定だった
「スヴェンボル詩集」がヒットラーのチェコ侵入によって没収されたものを、「ロンドン・マリク出版社刊行」と装って、自費出版した。
このことについてブレヒトはベウラウに宛てた手紙に「君は僕の知る中で一番気前のいい人だ」と書いている。(ベウラウはその頃ルントと別れて暮し、3クローネのこの詩集をサイン入りで10クローネにして友人に売ってお金を稼いだらしい。)
ヒットラーのデンマーク侵攻
1939年4月 ヒットラーのデンマーク侵攻の危機を感じて、ブレヒト一家はスェーデンのストックホルムに亡命の地を移す。
1940年4月9日 ナチスはデンマークとノルウェーを奇襲。同年4月17日ブレヒト一家はベウラウの伝手によりフィンランドの女性作家 ヘッラ・ヴォリヨキのもとを目指して亡命地をフィンランドに移す。
この時期はベウラウはデンマークに留まっていたが、デンマークのナチスのいやがらせはベウラウにもおよび日毎激しくなり、共産党もブレヒトもベウラウにデンマークを立ち去るべきだと勧めた。
この時ブレヒトからベウラウ宛てに手紙が届く
「・・・・愛するルートよ、すぐ来てほしい。すべては変わっていない。たしかで良い関係も。J・e・d(デンマーク語の愛しているの略号)そしてこれからも変わらないだろう。僕らがどんなに離れることになろうとも、十年も二十年も・・・・・。そしてライ・ツーの任務は、自分を大事にし、僕らの何よりも大事にしなければならない本当の関係がはじまるまで、危険をきりぬけること。愛するルートへ、epep(ラテン語の遠くにいても近くにいるよの略) ベルトルト」
そして、
ブレヒトはこの部分だけは切り抜いて保持しておくようにベウラウに指示を与えたという。
ベウラウはブレヒトの手紙はすべてなくさず最後までとっておいた。