
『朝に晩に読むために』 野村 修 訳
わたしの愛するひとが
わたしにいった,
きみが必要だ,と.
だから
わたしは気をつけて
道をゆき
雨だれをさえおそれる
それに打たれて殺されてはならない,と.
この短詩は1937年に書かれている。
1936年7月に始まったスペイン内戦がその後の世界史の動きに大きく影響
したこと、そしてこのとき、共和派の側へ世界の各地から義勇兵が馳せ参じた
ことは、ひろく知られている。
当時デンマークのスヴェンボルグに亡命していたブレヒトは、デンマーク王立劇
場の女優であると同時にひとつの労働者演劇サークルの組織者でもあった
ルート・ベウラウ(Ruth・Berlau)と親しくなっていた。彼女が1937年初め、国際
義勇軍に参加するためにスペインへ出発したときに、この詩は彼女に贈られている。
詩のなかで「わたしの愛するひと」と」いわれているのは、ブレヒト自身である。
反革命に抗してたたかうことと同時に、なおかつ智慧(ちえ)をつくして生きのびる
ことをだいじにしたブレヒトの気もちが、ここによく表出されている。
わたしの雑学記
『朝に晩に読むために』は作曲家 林 光 と萩 京子 両氏が作曲した作品がある。
丁度いまから十年前に萩 京子作品でこの詩(ソング)を知った。
「わたしの愛するひとが わたしにいった きみが必要だ、と。
だからわたしは気をつけて道をいき
雨だれをさえ おそれる
それに打たれて 殺されてはならない、と。」
詩だけを読むと密やかに伝える愛の詩のようで、しかし
(雨だれ=弾丸 と考えると・・・)
なにか寸前まで迫りくる死と
向かい合わせのような怖さも伝わってくるのだが。
しかし、萩 京子作曲の旋律にのったこのソングは強力な愛のパワーというか、命の危機
死をも恐れない愛の高揚が迫ってくる感じがした。しかし、この詩につけられた旋律の上へ
上へと昇っていくようなな大胆な感じと、
死と向かい合わせの内へ内へと慎重に臆病に浸透するような詩とのマッチングに
当時の私は、不思議な後味を憶えるソングとなって、もうひとつ胸へストンと落ちてこない
感じがのこっていた。
余談で、ブレヒトの亡命中に彼を熱烈に崇拝者兼協力者となった女性が各国いたと聞くが
ルート・ベウラウもそのなかの強力な一人であった。彼女らが生涯をかけて添うブレヒト
というヒトはいったい何物だろう、またどんなフレーズ(旋律)にのせて「きみが必要だ」
とメッセージを送るのだろうと興味を抱いた。(ブレヒト自身もギター片手に弾き語りをす
るらしいのだが・・・)
最近(2001.3月)ある場所で 林 光作曲の同詩の作品(ソング)を聴いた、
十年前はじめて聞いた萩 京子作曲のソングとは別の後味が残った。
旋律からひろがる世界はスペインだった。まもなくそこにマタドールが登場してくるような
緊張感と詩の部分では「あまだれを おそれる おそれる」
「それにうたれて ころされては ならないと ならないと」
と、「おそれる」「ならないと」のくりかえしが、まさにブレヒトがスペイン市民戦争に参加した
ベウラウにあてた心配と遠く離れたスペインにむけて送る愛を手紙込めて綴ったブレヒトの
思いが旋律になっていると直感で閃いた。
つまり,私的見解をまとめると、
林 光作曲の「朝に晩に読むために」はブレヒト側に立って、
国際義勇軍に参加するためにスペインへ出発したルート・ベウラウへ贈った愛のメッセ
ージを旋律にしたのではなかろうかと。
萩 京子作曲の「朝に晩に読むために」は、詩を贈られたのベウラウ側に立って作曲さ
れた。ベウラウのブレヒトから発信された愛のメッセージを受け取って、満たされた
愛の高揚を 萩 京子氏は旋律にしたのではと・・・。